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☆~語られた御言葉と証の分かち合い~☆

9月4日
読了時間: 7分

遠回りのようで、導かれていた道


語られた御言葉

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ書29章11節


  証

私は、高校受験でも大学受験でも、自分が第一志望だと思っていた学校には、すべて合格することができませんでした。特に大学受験のときは、なかなか成績が伸びず、途中で志望校を変えることもありました。そのため、正直なところ、受験生活にはあまり良い思い出がありません。最終的に、自分が「ここなら行ってもいいかな」と思っていたのは大学ではなく、以前受験していた専門学校でした。私はその学校に補欠合格しました。毎日、「今日は繰り上げ合格の連絡が来るかな」と期待していましたが、なかなか連絡は来ませんでした。しかし、3月下旬に母から「学校から合格の連絡が来たよ」と聞いたときは、本当に嬉しかったことを覚えています。一方で、私はずっと大学に行きたいという思いがあったため、専門学校に入学した1年生の頃は、自分が専門学校に通っていることをなかなか受け入れられず、周りと比べてしまうこともありました。「どうして自分は大学に行けなかったのだろう」「自分は受験に失敗したのではないか」そのように思うこともありました。けれども、専門学校で学んでいく中で、「私は何のために学んでいるのだろう」と考えるようになりました。そして、看護師になるために学んでいるのであれば、どこで学ぶかよりも、何のために学ぶのかが大切なのではないかと思えるようになりました。また、私の性格を考えると、大学で4年間かけて学ぶよりも、専門学校で3年間という短い期間で集中して看護を学ぶほうが、自分には合っていたようにも思います。そこで少しずつ、「もしかしたら、私が失敗したと思っていたことも、神様が私を導いてくださっていたのかもしれない」と思えるようになりました。当時の私は、自分が行きたいと思っていた学校に行けなかったことを「失敗」だと思っていました。しかし、今振り返ってみると、受験では失敗したように思えたけれど、その道を通ったからこそ、神様は私にとって一番良い学校へ導いてくださったのだと思います。自分が行きたいと思っていた学校に行くことが、必ずしも自分にとって一番良いことではありませんでした。私は、自分が見えている範囲で「これが一番良い」と考えていました。けれども、神様は私には見えていなかった先のことまで知っておられました。そして、このことを考えるとき、私はイエス様の十字架を思い出します。私たちは、神様がなさることのすべてを理解できるわけではありません。なぜこのことが起こるのか、なぜ自分の願っていた道が閉ざされるのか、その時には分からないこともあります。私自身も、受験に失敗したと感じたときには、その意味が分かりませんでした。しかし、十字架を見ると、神様が私たちをどれほど愛してくださっているのかを知ることができます。イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかり、命を捨ててくださいました。私たちが何かを成し遂げたからではなく、神様のほうから私たちを愛してくださり、救いの道を備えてくださいました。

だから私は、自分には分からないことがあったとしても、神様を信頼してよいのだと思います。十字架を見上げると、「神様は本当に私のことを愛してくださっている」と思うことができます。だからこそ、目の前の出来事だけを見て、「うまくいかなかった」「失敗した」と決めつけるのではなく、神様がその先に何を備えてくださっているのかを信じて、委ねることができるのだと思います。専門学校で学んでいく中で、私はさらに学びたいという思いが与えられました。そこで、専門学校3年生のときに大学編入試験に挑戦しました。しかし、結果はすべて不合格でした。その後、専門学校を卒業し、看護師として働くことになりました。看護師として働く中で、自分の知識の足りなさを感じたり、もっと学んでみたいと思う分野が与えられたりしました。そして、「いつかもう一度、大学編入に挑戦したい」と思うようになり、祈るようになりました。社会人2年目のとき、もう一度大学編入試験に挑戦する機会が与えられました。職場の方をはじめ、本当に多くの方々の支えや協力のおかげで、試験に臨むことができました。第一志望の学校は、2年前に一度不合格になった学校でした。試験後は正直、あまり手応えがなく、泣いたり、数日間落ち込んだりしていました。「まただめだったらどうしよう」そんな不安もありました。しかし、そのような中で、「神様がなさることは素晴らしく、どのような結果になったとしても、主が導いてくださる」と思いました。そして、結果を神様に委ねました。すると、不思議と心がとても楽になりました。

合格することだけを願っていたときは、結果が怖くて仕方がありませんでした。けれども、「自分の願いどおりになること」ではなく、「神様が最善をなしてくださること」を信じて委ねたとき、心に平安が与えられました。そして、本当に神様の憐れみによって、第一志望の学校に合格することができました。結果発表を見るときは、正直とても怖かったです。でも、合格を知ったとき、「ここまで私を導いてくださったのは神様だったのだ」と感じました。高校生の頃から、いつか大学に進学して、公衆衛生の分野について学んでみたいという思いがありました。しかし、その思いはすぐには実現しませんでした。

高校受験でも、大学受験でも、自分が思い描いていた道には進めませんでした。専門学校に進み、そこで看護を学び、卒業後は看護師として働き、そして一度不合格になった大学編入試験に、数年後もう一度挑戦することになりました。

そのときの私は、それぞれの出来事がどこにつながっているのか分かりませんでした。けれども、今振り返ってみると、自分では「失敗した」と思っていた出来事も、神様にとっては、私を一番良い場所へ導くための道だったのだと感じます。

もし最初から自分の望んでいた大学に進学していたら、看護師として働く経験はなかったかもしれません。看護師として働いたからこそ、自分の知識の足りなさを実感し、学びたい分野が明確になりました。そして今、学生として公衆衛生について学ぶ中で、看護師として働いた経験が生かされています。

高校生の頃から願っていた公衆衛生について、何年も経った今、学ぶ機会が与えられていることを、本当に感謝しています。聖書には、このような御言葉があります。

エレミヤ書29章11節

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。―主の御告げ―それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

この御言葉を思いながら自分のこれまでの歩みを振り返ると、当時は「遠回りしている」と感じていた道も、決して無駄な道ではなかったのだと思います。私は、自分が思い描いていた道こそが一番良い道だと思っていました。しかし、今振り返ると、自分が選びたかった道よりも、神様が備えてくださった道のほうが、私にとって一番良い道でした。そして、それを信じることができるのは、十字架によって示された神様の愛があるからだと思います。これから先も、すべてのことが自分の思い通りになるわけではないと思います。また、「どうしてこの道なのだろう」と思うこともあるかもしれません。それでも、十字架を見上げて、神様が私を愛してくださっていることを思い出したいです。目の前の出来事だけでは、神様の計画が分からないことがあっても、十字架によって示された神様の愛を信じて、神様に委ねていきたいと思います。


振り返ってみると、神様がなさることは、自分が思っている以上に素晴らしいものだと感じます。

受験に失敗したように思えたことも、遠回りに思えたことも、振り返れば、神様が私を一番良い場所へ導いてくださるための道でした。だからこれからも、自分の思いだけで道を選ぶのではなく、神様に祈りながら、神様の御心を求めていきたいです。たとえ先が見えないときでも十字架に示された神様の愛を信じて、神様が与えてくださった道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。遠回りのように見えた道も、失敗のように思えた出来事も、振り返れば、神様が私を一番良い場所へ導いてくださるための道でした。これからも、私の人生を神様に委ねて歩んでいきたいと思います。

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