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🍀語られた御言葉と証の分かち合い〜S.D.G〜🍀

証 「主よ、憐れんでください」


S.D.G

 

 「さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、『ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください』と叫び始めた。多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、『ダビデの子よ、私をあわれんでください』と、ますます叫んだ。イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる』と言った。その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは彼に言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』すると、その目の見えない人は言った。『先生、目が見えるようにしてください。』そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」

(マルコの福音書10:46~52) 


 「主よ、憐れんでください」これは、最近、僕が祈り続けている祈りです。冒頭の物語に出てきたバルティマイのように、いつも神の前に心が叫んでいます。作業の合間に、道を歩くとき、電車の中で、読書しているとき、あらゆる時にふとこの祈りが口からこぼれてきます。(なんなら、これを書いている今も、この祈りを口にしているのです)


 なぜ、このような祈りを口にするかというと、絶え間なく心配や恐れ、後悔や罪悪感、無力感や迷いが自分の心に襲いかかってくるからです。僕は感情的に不安定なところがあるようで、襲ってくるネガティブな感情が、正しいものなのか間違ったものなのか、それを見分けることにも困難を覚えます。確かなことは、自分が本当にイエス・キリストを信じているのであれば、決してしなかったであろう多くのことを毎日のように行い、毎日のように考えているということです。また、自分が本当にイエス・キリストを信じているのであれば必ずしたであろう多くのことをせず、また必ず心にかけたであろう多くのことに対し、全く無関心であったという事実です。この事実を思い出すたび、悲しくなり、気が重くなります。そして、この祈りを捧げるのです。「主よ、憐れんでください」と。


 また、この祈りは、自分と関わりのあるすべての人のための祈りです。僕には多くの喜びをともにする知り合いや友人が与えられています。しかし、同時に、多くの知り合いや友人が、傷つき、迷い、苦難と苦悩の中を生きていることも知っています。彼らのために、「自分がなにかできたら」と思いますが、彼らのような重い苦しみを負ったこともなく、その辛さを十分に知るわけでもない自分のような者に何ができるだろうと途方に暮れます。そのようなとき、自分自身にはその友人・知人を助ける力もなく、共感できるような経験もなく、彼らのことを心から心配する愛もありません。しかし、僕の主イエス・キリストは、彼らを助ける力があり、彼らの痛みをすべてその身を通じて体験しておられ、彼ら自身や彼らの最も身近にいる人の何倍も彼ら自身に深い関心を、愛を注いでいることを知っています。そこで、友人・知人の痛みを覚えたとき、やはり祈り求める言葉は「主よ、憐れんでください」となるのです。


 そして、この祈りはこの社会において生き抜くためにも必要なのです。僕は、非常に怠惰で、計画性がありません。学生としてなすべき学業も、与えられた奉仕の機会も、その他、日々の歩みの中で、常に後手に回って生きています。正直、最近は大学の授業も、教会の奉仕も、常にギリギリで仕上げています。そんな自分自身が変わる必要を覚えると同時に、常にピンチの中で圧を感じながら、祈り求めています。「主よ、憐れんでください」と。僕には、自分ひとりで生きていけない自信があります。多くの友人・知人が、僕を支え、助け、僕のために犠牲を払ってくれます。しかし、この世界において、どんな時もどんな場所でも僕とともにいて、どんなに大きなことも、どんなに小さなことも、力強い御手を持って助けてくださる方は、神様だけです。


 最後に、この祈りは世界のために捧げられています。この世界には、驚くほど多くの痛みがあります。普段は目にすることも、気に留めることもない。そんな小さな隠れた場所で、多くの人が苦しみ嘆いています。病気、事故、犯罪、社会問題、国際問題、災害、その痛みを、何かをきっかけに知った時、やはり祈り求める以外のことができないのです。大抵の場合、それらの原因は非常に複雑で、同時に非常に根が深く非常に大きな問題です。僕はそうした問題から、普段は目を背け、見ないふりをしています。それでも、その痛みを偶然、知ってしまった時、またその痛みの一欠片でも味わった時、祈り求めざるを得ません。「主よ、憐れんでください」と。僕らにはどうにもできない問題に対し、力を持って正義と愛を実行されるのは神お一人だと信じているからです。


 おそらく、これを読まれた方の何人かは、この祈りをかなりネガティブな願いだと感じられるのではないでしょうか。真のキリスト者であれば、感謝と喜びを持って、罪赦されたものとして大胆に、胸を張って生きるべきだと思われるかも知れません。それとも、もっと単純に、僕自身があまりに内省的で、自己憐憫と自己嫌悪に浸っている、もっと簡単に言えば「あれこれ考えすぎ、気にし過ぎ」だと思われるかも知れません。おそらく、それも事実です。けれども、それでも、そのような自分だからこそ、この祈りを捧げ続けています。もし、自分のうちに、そのような弱さが、また健全でない信仰があれば、それこそ主に願わずして、誰に願えるでしょう。

 

 そして、このネガティブな祈りには、力強い答えがいつも与えられています。聖書を読むとき、旧約聖書では神がイスラエルを憐れまれる姿が、新約聖書ではイエス・キリストがみじめな人々を憐れまれる姿が、何度となく書かれています。僕の知る限り、僕の主イエス・キリストが、心から「憐れんでください」と願う願いに、耳を背けられたこと、答えられなかったことはありません。自分でもほとほと嫌になる惨めで無力な自分ですが、主イエス・キリストの豊かな憐れみのゆえに、何度も何度も乗り越えられないと思った苦難を乗り越えさせていただきました。主は必ずや、切なる願いに答えてくださる。その確信があるからこそ、祈り求めるのです。そして、この祈りは、日々、自分の人生が神の恵みによって生かされているものであることを告白するものでもあります。以前、読んだ「恵みに生きる訓練」という本の中で、このような言葉がありました。


 「あなたの最悪の日々も、神の恵みの届く距離を遥かに超えるほど遠くにあなたをおいてしまうほど、悪いことは決してない。そして、あなたの最善の日々も、あなたに神の恵みの必要を感じさせないほど、良いことは決してない。

 (中略)私たちは恵みによって救われただけでなく、毎日を恵みによって生きている。」

(恵みに生きる訓練 著 ジェリー・ブリッジズ)


 僕はいつも、自分がもっと信仰深く、もっと優秀で、もっと立派な人間だったら、どんなに良かっただろうと思います。自分の力で出来ることが少しでも多ければ、自分に対してもっと自信を持つことが出来るのに… と。

 しかし、この祈りを捧げながら、神の前にへりくだるとき、神ご自身の願いはちょっと違うのではないかと感じるのです。確かに神ご自身も、もっと僕が幸せになること、優秀で神の役に立つ者となること、きよく正しく愛のある者となることを望まれているでしょう。しかし、それ以上に、僕が神の前に自らの無力と嘆きを注ぎだし、神の恵みにより頼み続け、神の愛と恵みに感謝して生きることを求めておられるのではないかと思うのです。神は、僕が神様の恵みを必要としないと感じるほど強くあることより、毎日毎日、神様なしには生きていけない弱い人間であることを認められる人間であることを願っているのではないかと思うのです。僕自身、今の自分が完全に自分の理想通りに生きる人間であったなら、神様や周りの人に助けてもらう喜びを味わうことも、神様がどれほど僕のことを愛しているか知ることもなかったと思います。


 だから、今日も、神に祈り求めます。「主よ、僕らを憐れんでください」と。

 
 
 

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