
🍀語られた御言葉と証の分かち合い〜Luzさん〜🍀
- KGK東海地区HP委員

- 11月16日
- 読了時間: 3分
「私が宣教を考え始めた理由」
語られた御言葉:
全地よ、主に歌え。
日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
主の栄光を国々の間で語り告げよ。
その奇しいみわざを、あらゆる民の間で。
主は大いなる方、大いに賛美される方。
すべての神々にまさって恐れられる方だ。
まことに、どの民の神々もみな偽りだ。
しかし主は天をお造りになった。
威厳と威光は御前にあり、
力と喜びは御住まいにある。
(歴代誌 第一 16:23-27)
私はKGKに来るまで、「なぜクリスチャンは宣教を考える必要があるのか」がよく分かりませんでした。
家族や友人、大切な人のために祈るのは理解できます。
でも、どこか遠い、行ったこともない土地の人のことや、国全体のために祈ることに、正直、意味を見いだせていませんでした。
「知らない人のことに、どうしてそんなに思いを向ける必要があるの?」
それが、昔の私の正直な気持ちでした。
でも、2025年3月のNC(KGK全国集会)に参加したとき、私は初めて“日本宣教や世界宣教のために祈ることには意味がある”ということを深く学びました。
自分が知らない誰か、会ったこともない誰かのために祈る。
それは、神さまの視点で世界を見る第一歩なんだと気づかされたのです。
そしてその学びがきっかけとなり、9月には思い切って、教団が行う佐賀でのキャラバンに参加してみることにしました。行ったことのない土地、知り合いが一人もいない場所。でも、あのとき心に与えられた“祈りの視野を広げたい”という思いを確かめたくて、一歩踏み出しました。
もしKGKに出会っていなかったら、私は今もおそらく “自分の周りだけ” を見ていたと思います。
祈ることも、考えることも、踏み出すことも、すべて「自分に関係あること」に限られていたはずです。
でもKGKの仲間と共に、聖書を読み、祈り、語り合う中で、私は初めてこう思いました。
「世界には、私の知らないところにも、神さまに愛されている人が無数にいるんだ。」この気づきが、私の視野を大きく広げてくれました。
高校生まで私はずっと、
・日曜日に教会へ行って
・メッセージを聞いて
・とりあえずクリスチャンとして生きる
そんな“受け身の信仰生活”をしていました。
けれどKGKの交わりの中で、
「神さまを知ることは、自分から向き合うことなんだ」と教えられました。
ただ聞き流すだけではなく、問いを持ち、考え、祈り、踏み出す。その姿勢が少しずつ与えられていきました。
私は弱くて、欠けだらけで、何度も何度も神さまから逃げてしまうような者です。
けれど逃げた先で必ず、無償の愛をもって私を追いかけ、引き上げてくださる神さまに出会ってきました。
だから私はこう祈らずにはいられません。
「主よ、私にはあなたしかいません。
見栄もプライドも捨てます。
助けてください。」
この“神さましか頼れない”という実感が、
私を「宣教」ということばへ少しずつ近づけていったのだと思います。
宣教を考えるようになって気づいたのは、それは「特別な誰かがやること」ではなく、神さまが愛しておられる世界へ、私も心を広げていくこと
でした。
私が行ったことのない土地にも、私が会ったことのない人にも、神さまは同じように心を向けておられる。
そのことに気づけたのが、佐賀キャラバンの体験であり、それ以上に KGKでの日々の学びの恵み でした。
私は「宣教をしに行けたこと」よりも、宣教を考える心が与えられたことそのものが、神さまからの恵みだと思っています。
視野が広がり、知らない誰かを思いやれるようになり、神さまの大きな愛の一部に触れることができた。
これからも、自分の周りの人だけでなく、日本や世界へ心を向けて祈れるクリスチャンでありたい。そう願っています。




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