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🍀語られた御言葉と証の分かち合い〜Luzさん〜🍀

「私が宣教を考え始めた理由」


語られた御言葉:

全地よ、主に歌え。

日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。

主の栄光を国々の間で語り告げよ。

その奇しいみわざを、あらゆる民の間で。

主は大いなる方、大いに賛美される方。

すべての神々にまさって恐れられる方だ。

まことに、どの民の神々もみな偽りだ。

しかし主は天をお造りになった。

威厳と威光は御前にあり、

力と喜びは御住まいにある。

(歴代誌 第一 16:23-27)


私はKGKに来るまで、「なぜクリスチャンは宣教を考える必要があるのか」がよく分かりませんでした。

家族や友人、大切な人のために祈るのは理解できます。

でも、どこか遠い、行ったこともない土地の人のことや、国全体のために祈ることに、正直、意味を見いだせていませんでした。

「知らない人のことに、どうしてそんなに思いを向ける必要があるの?」

それが、昔の私の正直な気持ちでした。

でも、2025年3月のNC(KGK全国集会)に参加したとき、私は初めて“日本宣教や世界宣教のために祈ることには意味がある”ということを深く学びました。

自分が知らない誰か、会ったこともない誰かのために祈る。

それは、神さまの視点で世界を見る第一歩なんだと気づかされたのです。

そしてその学びがきっかけとなり、9月には思い切って、教団が行う佐賀でのキャラバンに参加してみることにしました。行ったことのない土地、知り合いが一人もいない場所。でも、あのとき心に与えられた“祈りの視野を広げたい”という思いを確かめたくて、一歩踏み出しました。


もしKGKに出会っていなかったら、私は今もおそらく “自分の周りだけ” を見ていたと思います。

祈ることも、考えることも、踏み出すことも、すべて「自分に関係あること」に限られていたはずです。

でもKGKの仲間と共に、聖書を読み、祈り、語り合う中で、私は初めてこう思いました。

「世界には、私の知らないところにも、神さまに愛されている人が無数にいるんだ。」この気づきが、私の視野を大きく広げてくれました。


高校生まで私はずっと、

・日曜日に教会へ行って

・メッセージを聞いて

・とりあえずクリスチャンとして生きる

そんな“受け身の信仰生活”をしていました。

けれどKGKの交わりの中で、

「神さまを知ることは、自分から向き合うことなんだ」と教えられました。

ただ聞き流すだけではなく、問いを持ち、考え、祈り、踏み出す。その姿勢が少しずつ与えられていきました。


私は弱くて、欠けだらけで、何度も何度も神さまから逃げてしまうような者です。

けれど逃げた先で必ず、無償の愛をもって私を追いかけ、引き上げてくださる神さまに出会ってきました。

だから私はこう祈らずにはいられません。

「主よ、私にはあなたしかいません。

見栄もプライドも捨てます。

助けてください。」

この“神さましか頼れない”という実感が、

私を「宣教」ということばへ少しずつ近づけていったのだと思います。


宣教を考えるようになって気づいたのは、それは「特別な誰かがやること」ではなく、神さまが愛しておられる世界へ、私も心を広げていくこと

でした。

私が行ったことのない土地にも、私が会ったことのない人にも、神さまは同じように心を向けておられる。

そのことに気づけたのが、佐賀キャラバンの体験であり、それ以上に KGKでの日々の学びの恵み でした。


私は「宣教をしに行けたこと」よりも、宣教を考える心が与えられたことそのものが、神さまからの恵みだと思っています。

視野が広がり、知らない誰かを思いやれるようになり、神さまの大きな愛の一部に触れることができた。

これからも、自分の周りの人だけでなく、日本や世界へ心を向けて祈れるクリスチャンでありたい。そう願っています。

 
 
 

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